ハンドルネーム 小町さん
あれは28歳の時、まず左の耳の聴力が低下し、耳鳴りが始まりました。
日常生活に支障がなかったのですが、耳鳴りがうっとうしかったのを記憶しています。
翌日、自宅近所の耳鼻科に行きましたが、異常なしと言われました。
次にその当時勤務していた、会社近くの耳鼻科に行き、耳に水が入っているのかもしれないと、言われました。
耳鳴りはまったく治まりません。
次に専門の病院、大学病院と、数か所の病院に行きました。
最後の病院ではメニエール病と診断され、「耳鳴りは一生治まりません。なるべく気にせずに、過ごしてください」と言われました。
しかし数日後、聞こえていたはずの右耳から音が聞こえません。
あわてて仕事中の主人に連絡をして、病院に駆け込み、医師からすぐにMRI受診と告げられました。
結果、両耳の聴神経に腫瘍が見つかりました。
その時神経線維腫症2型と告げられ、2か月後の29歳の時に右耳の開頭手術を受けました。
聴力が戻ったのもつかの間、翌年には再発。2度目の手術により右耳の聴力を失いました。しばらくは左耳に補聴器を装着していましたが、その左耳の聴力も、いつのまにか失いました。
聞こえなくなった当初は、言葉では言い表すことのできない辛い日々が待っていました。
よく日中も寝ていたのを思い出します。もし目を覚ましたとき、音が聞こえてくるかもしれないと、一縷の望みをもっていたんだと思います。しかし聞こえてくるのは耳鳴りだけでした。
途中で聞こえなくなるということは、音だけでなく、それまで築き上げてきた、人生(人間関係)を失うことでもあります。
徐々に聞こえていた友人とも疎遠になってしまいます。つまり、つながっていたロープが途中で切れた状態です。とてもつらかったです。
人間は人とのつながりの中で生きています。コミュニケーションができなくなったとき、生きる意味も自信も、失ってしまうことを知りました。
30代になって手話を学び始めました。手話だけでなく、いままで知らなかった世界を知ることもできました。ただ口読が苦手なので、手話を知らない人とは筆談になります。
聴者中心の社会では、ときどき筆談を面倒くさがられ、露骨に嫌な表情を見せる人もいます。一時心が萎みますが、「聞こえないことは恥ずかしいことではない。」をモットーに、自分のこと(中途失聴者)を知ってもらうためにも、籠らず外に出て行こうと、チャレンジしています。
振り返ってみると今55歳なので人生のほぼ半分を、聴覚障がい者として生きてきたことになります。
失聴してしばらくは自分のことで頭が一杯でしたが、最近は高齢の親のことを考える時間が増えました。
例えば病院の付き添いもその一つです。
朝から大勢の患者を抱えている医師は、筆談をする余裕がありません。必ずもう一人、聴者の付き添いをお願いしています。
問題はその付き添い相手が家族ならよいのですが、要約筆記、手話通訳となると、母は難色を示し、必要ないと言います。
必要なのは聞こえない私ですが、なかなか難しいです。
それでも介護と同じで、一人で抱え込まないように心掛けてます。
難病になって聴力は失いましたが、一番の発見は聴力を失っても私にはできることがあるということです。
今はできることに目をむけて、ささやかなことにも小さな幸せを感じる今日この頃です。